・大石竜輔さんが成功した秘訣。
・泉沢果那さんとの出逢いについて。
ヘルニアで1年間寝っぱなしの生活だったので暇つぶしでタンバリンを叩いていたら
知らない間に極めてしまって日本トップレベルになっ大石竜輔さん。
大石さんは自称「プロのタンバリン奏者」として活躍しているが、過去には重度の腰痛に悩まされ、
音楽の道を断念しようと考えた時期があった。驚くべきことに、タンバリンを手にしたのは、腰痛で寝たきりの時期に時間潰しのためだった。
どのようにしてこの趣味が彼のキャリアの転機となり、現在に至る活躍へと繋がったのだろうか?
YouTuberであり、演奏家の大石竜輔さんや、泉沢果那について
探っていきます。
目次
大石竜輔PROFILE
生年月日 |
1987年1月3日 |
別名 |
ガチタンバリンの人 |
出身地 |
静岡県 |
学歴 |
ヤマハ音楽院ドラム科 藤枝明誠高等学校 |
職業 |
打楽器演者、YouTube |
大石竜輔が音楽に目覚めたきっかけ
大石さんは1987年に静岡県で生まれました。彼の音楽への旅は、3歳のときにエレクトーンを弾き始めることで幕を開けましたが、
9歳の時にはドラムへと興味を移しました。
「実は姉と兄もドラムをやっていたんです。彼らを見ているうちに、私も試してみたいと思ったんです。音楽教室に足を運んだら、
エレクトーンの譜面よりもドラムの方がすんなり理解できたんですよ」と大石さんは振り返ります。
ドラムへの情熱に火がついたわけではありませんが、彼はドラム演奏を続ける一方で、中学では3年間を弓道に費やしました。
高校時代には、吹奏楽部でパーカッション奏者として活動。この頃の彼は、メガネをかけた黒髪の典型的な好青年であり、現在の風貌とは大きく異なります。
今の風貌は見方によっては怖いですが、学生時代は本当に好青年ですね!!
大石さんのXのこの投稿が面白いです!!笑
垢抜けたっていうか化け物になった pic.twitter.com/n7yyww8F8P
— ガチタンバリン奏者大石竜輔 (@ryu1300ryu) April 3, 2020
ヤマハ音楽院ドラム科に進学
大石さんが音楽の道を本格的に考え始めたのは、高校2年生の時でした。
子供の頃からビデオゲームに魅了されていた彼は、ゲームのサウンドトラックに存在する専門分野に関心を持ちました。
「あるゲーム雑誌の付録に、『大乱闘スマッシュブラザーズ』の音楽がオーケストラ演奏で収められたCDがあり、それを何度も聴いていました。
その体験が、自分もゲーム音楽を制作したいと思うようになったきっかけです」と大石さんは振り返ります。
音楽理論をこれまで学んでこなかったため、音楽学校への進学は難しい道のりでした。
吹奏楽部の指導教員からは、「ドラムに専念した方が良い」というアドバイスを受け、方針を変更。
高校を卒業後、彼は神奈川県元住吉にあるヤマハ音楽院のドラム科へ進学し、「ドラム教師」という新たな目標を掲げました。
そこでは、同級生たちと共に、ドラムに没頭する日々を過ごしたそうです。
話している大石さんはとても優しそうですね^ ^
大石竜輔さんの金髪スタイルはいつから?
大石さんが自身の特徴的な金髪スタイルを採用したのは、学生時代の2年生の時で、
「金髪のオールバックにしよう」と提案した先輩に影響されてからだそうです!
彼が通っていた学校は2年制だが、希望に応じて研究生としてさらに1年間留まることが可能でした。
様々なバンドに加わったり、離れたりするうちに、元々持っていた「ドラム教師になる」という目標は徐々に背景に退き、
「ライブハウスで演奏していれば、いずれは注目されるだろう」という考え方に移行していったそう。
その結果、在学中にプロの指導者や先輩から実践的な学びを得る機会を逃し、バンドでの成功を夢見て学校を卒業したそうです!
バンドで成功することを諦め、ヘルニアに苦しむ日々
大石さんのバンドでの夢は、想像以上に厳しい現実に直面し、砕け散りました。
彼がドラムを担当していたバンドは、一定の人気と実績を誇るメンバーが在籍し、成功の可能性を秘めていました。
だが、華やかな舞台の背後では、他のメンバーからの技術批判に晒される毎日が続き、自信を喪失し、心が縮こまってしまいました。
「リハーサルの度に、駅で10分程度心を落ち着けないとスタジオに入ることができなかった」と大石さんは回想します。
さらに彼を追い込んだのは、腰のヘルニアという病。ドラマーには珍しくないこの症状は日に日に悪化し、
やがては電車で立つことすらできず、床に座り込むようになりました。痛みに耐えながらも練習を続けるうちに、
症状はさらに重くなり、最終的には横になっていることすら苦痛になりました。ヘルニアの検査で、足を5センチも上げられない状態だったといいます。
これは辛すぎる....><
友人たちは彼の姿を見て「おじいちゃんみたい」と心配しました。そんな状態になれば、多くの人が「もう辞めよう」と思うはずです。
そして、大石さんも「腰が酷く、技術も足りない。もう辞めよう」と決意し、
バンドメンバーにその旨を伝えました。その時に受けた言葉は、今でも彼の記憶に残っているそうです。
「このバンドを辞めれば、音楽で何かを成し遂げることは一生ないだろう」
心身ともに限界を迎え、バンドを離れた時、彼は学校を卒業してから既に2年が経過していました。
暇つぶしで始めたタンバリンが...
23歳で身体がすり減り、深刻なヘルニアに苦しんだ大石さんは、治療のために静岡の実家へと帰郷しました。
当時は体を起こすことさえ苦痛で、ほとんどの時間を横になって過ごすしかなかった。
ヘルニアの痛みを緩和する一つの方法として、麻酔薬を注射するブロック注射があるが、大石さんが受けたにもかかわらず、痛みはわずかに軽減されるのみでした。
ドラムを再び手にすれば、激しい痛みが再発する可能性が高く、ブロック注射でさえ完全な回復をもたらさなかったことから、
彼は「もはや音楽を職業にすることは諦めるべきだ」と考えるようになりました。
専門学校で3年間の学びと2年間のバンド活動を経験した彼にとって、音楽の道を諦めることは容易な決断ではありませんでした。
そんな心の重たい時期に、彼に少しの慰めをもたらしたのがタンバリンでした。
長い療養生活の中で退屈し、ベッドに寝たままでも楽しめる楽器が彼にとっての救いとなりました。
タンバリンへの興味は、2008年に活動していたバンド時代にさかのぼります。
彼はYouTubeでレブ・エルマンの演奏に出会い、タンバリンの魅力に引き込まれました。
「彼の演奏は超絶技巧で、信じられないほど素晴らしかった。
それで私もタンバリンを購入し、練習を始めましたが、安価な楽器だったためか、音質に満足できず、いったんは挫折しました」
しかし、療養生活が与えてくれた豊富な時間を背景に、再度タンバリンに挑戦した大石さんは、自身の完璧主義を活かして急速に上達しました。
大石さんの人生を変えた二人の出逢い
治療の成果が現れ、再び外を歩けるようになった大石さんは、静岡県浜松市にある「JALI」へと足を運びました。
この店は、エジプトやトルコの伝統的な打楽器を扱う隠れた名店で、
ダラブッカやレク(アラブタンバリン)などベリーダンスで用いられる楽器が揃っています。
ここで、彼の人生は新たな方向へと進み始めました。
「一人での練習を重ね、ある程度上手に演奏できるようになり、質の良いレクを求めてこの店を訪れました。
店主はダラブッカの奏者で、ベリーダンスの伴奏も手掛ける人物です。
彼が私がレクを試すのを見て、『日本でこれほど上手く演奏できる人は珍しい。ベリーダンスの仕事を紹介しよう』と提案してくれたそうです!
かつては単なる暇つぶしのつもりで始めたタンバリンへの熱中が、練習を積むうちに専門的な技術へと昇華し、
「日本では稀な腕前」と評価されるまでに至りました。
この時期には、世界的に認知された日本のトップタンバリン奏者、田島隆さんとも運命的な出会いを果たしました。
田島さんについて初めて知ったのは、YouTubeでの彼の演奏に出会った時。「ドラムセットのようにタンバリンを演奏している」と彼の技術に驚かされたそうです!
田島隆さん
mixiのタンバリンコミュニティで質問を投稿した際、細かく回答してくれた人物がいました。
その人のプロフィール画像は名前こそ記されていませんでしたが、田島さんの長い髪型から彼だと直感したそうです!
実際に田島さんに会うため、彼のライブやワークショップに参加し始めた大石さんは、
質問に対して丁寧に答える田島さんの姿勢や、「タンバリンに興味を持つ若者が少ないので嬉しい」という言葉に、
これまでの音楽活動では感じることのなかった暖かさを感じました。
泉沢果那さんとの出逢い
大石さんの音楽人生には、偶然から生まれた出会いが幾つかあります。
その一つが、以前住んでいた駅の近くで路上演奏をしていた見知らぬ人との出会いでした。
「ちょっと一緒に演奏してみてもいいですか?」と声をかけてみたところ、二人の相性は抜群で、
気がつけば朝までセッションを楽しんでいたそうです。(笑)
行動力が凄いですね!!笑
その後、彼らは週に3回から5回もライブを行うほど、密接な音楽活動を共にし、今でもその関係は続いているそうです!
2018年には、さらなる転機が訪れました。大石さんがFacebookにアップしたレクの演奏動画を見た奥村将和さんから、
「習いたい」というメッセージが届いたのです。奥村さんとの待ち合わせで、彼と一緒にいたのは「ニューオリンズピアノバンド」
で活躍するピアニスト兼シンガーの泉沢果那さんでした。
泉沢果那さん
美しい!!!!!
三人で話し合う中で、その場のノリで共にライブを行うことになったそうです!
泉沢さんや奥村さんと共に多くのステージに立つうちに、大石さんはジャズ界で名を馳せる「南郷サマージャズフェスティバル2018」への出演も果たしました。
そして、気がついた時には、タンバリン奏者として生計を立てるまでに成長していたみたいですね!
もう後戻りできないタンバリン奏者がバズリ散らかす!
この時期に、「もう後戻りできないタンバリン奏者が挑戦する」というシリーズがスタートし、
特に「もう後戻りできないタンバリン奏者がおジャ魔女カーニバル!!を全力で演奏してみた」の動画が大きな注目を集め、
現在の再生回数は402万回を超えています!!
「以前、着ぐるみを着たドラマーがアンパンマンマーチを情熱的に演奏する動画が話題になったのを見て、
同様のシリーズを作ることにしました。おジャ魔女カーニバルはカラオケで友人が楽しそうに歌っていたのを聞いて、
これなら盛り上がるだろうと思い、動画ではヘッドバンギングや叫び声を加えてみました」と大石さんは語っています!
この動画が公開されたのは2020年2月16日で、新型コロナウイルスが世界的に広がり始める直前でした!
この動画の成功により、大石さんのチャンネル登録者数は劇的に増加し、コロナ禍の中、
「もう後戻りできない」シリーズを中心に様々な動画を投稿し続け、
多くの動画が数万回、数十万回、時には100万回以上の再生回数を記録したそうです!
これにより、大石さんは「ガチタンバリン奏者」として広く知られるようになりました!!
また、この時期に報道ステーションの4代目オープニングテーマ『Brave』の収録への参加という大きな仕事を経験し、
ミュージシャンとしてのキャリアにおける重要なマイルストーンを築きました。
「荒野行動」などのゲーム音楽を手掛けるKay Productionの代表から「ファンです」という連絡がきっかけで新たな仕事に繋がり、
さらには映画『劇場版NARUTO-ナルト-』の音楽を担当する高梨康治さんとの出会いがあり、即席でレコーディングに参加する機会を得ました。
これをきっかけに、映画音楽の依頼も受けるようになったそうです!!
まとめ
ヘルニアで1年間寝っぱなしの生活から暇つぶしでタンバリンを叩いていたら
知らない間に極めてしまって日本トップレベルになっ大石竜輔さんについて調べてみました!
挫折がきっかけで今の成功を手にした大石さん
斬新なアイデアと行動力がずば抜けていましたね!!
今後も大石竜輔さんの更なる活躍を応援したいと思います!!